家具と雑貨のお店BULLPEN(以下:ブルペン)の松島大介さんが、「自分らしい住まい方」「自分らしい生き方」を営む人々を訪ねていく、連載インタビュー。
第二回は、本プロジェクト名『tefu』の名付け親の一人でもある、Kankeischa 菅家明彦(カンケ アキヒコ)さんです。
菅家さんは、スイスのリサイクル・バッグブランドFREITAG(以下:フライターグ)の国内ブランディングとセールスに初期から関わられていましたが、それ以外にも、活動や繋がりは多岐に渡ります。
家具やコーヒーといった共通点によって、共通のつながりが多く、活動の範囲が近い菅家さんと松島さんですが、実際にこのように同じプロジェクトに関わるのは、このtefuが初めて。
前編では、改めて、菅家さんの生い立ちやこれまでの活動をお伺いしつつ、菅家さんらしい生き方や考え方を探っていきます。
求めていたコンセプトとの出会い 「ひとつひとつ、違って当たり前、だから価値がある」
松島 - 菅家さんとの出会いは、フライターグの方ということで、フライターグのファンである加藤(PADDLERS COFFEE共同代表)に紹介してもらったのが最初ですよね。
本当に色んな活動をされていて面白いなと思っていました。改めて、お伺いしたいなと思っていますし、この記事を読んでくださっている方に菅家さんがどんな人なのか、、、生い立ちや、今に至る経緯をお伝えできればと思います。
菅家 - 今年、50歳になりました。東京都中野区生まれで、千葉県船橋市の育ちです。父は福島の南会津の出身です。そこは菅家という名前のゆかりがある土地です。母親が渋谷区竹下町(原宿)出身で、母方の祖父の代より原宿で病院を営んでいましたので、よく遊びに行っていました。外苑前の高校に通うことになってから、いとこと渋谷に住むようになりました。
松島 - スーパーシティーボーイですね。
菅家 - そんなことはありませんよ。学生時代は、音楽やバックパッカーをやっていました。大学では教育学科で学んでいました。大学を出て、会社に就職して、という道が見えてなかったので、英語と社会の教員資格を取りました。大学卒業後は都内の男子校で英語の非常勤講師をしていました。
松島 - 教員をされていたということですが、何かターニングポイントがあったのでしょうか?
菅家 - 教職は資格さえ更新すれば、またやらせてもらえる時がくるって思ってて。ちょうど40歳を過ぎた頃の2011年にフライターグが銀座にアジアで最初のフラッグシップストアをオープンさせようという流れがあって。ブランドの確立と若い後任者をしっかり育てたいということで一旦、教職から離れました。ちょうど、東日本大震災の日が学校を離れる最後の日となりました。
教員を始めたのが1993年で、90年代半ばから、学校の仕事が終わるとフライターグを広める活動をしていました。
松島 - 先生をやりながら、フライターグに関わられていたんですか?きっかけはあったんですか?
菅家 - 学生時代からの仲の良い友だちのユングニッケルがスイスのスノーボードを輸入してまして。そのスノーボードのバッグをフライターグが作っていたという繋がりがあって。
ISPOというスポーツブランドの展示会がドイツであったときに、ユングニッケル曰く、ダニエル・フライターグとスノーボードブランドのブースで出会ったのだそうです。
フライターグ兄弟と(左一番目:菅家さん、左二番目:ダニエル、右二番目:マーカス)
松島 - そんな出会いがあったんですか。
菅家 - そうですね。マーカスとダニエルのフライターグ兄弟は、1970,71年生まれの年子で、自分たちも70年生まれだから同世代だったというのも大きかったですね。売れるかどうかとか、そんなことよりも、同時代に生まれた彼ら兄弟の作ったクリエーションに衝撃を受けつつも、では自分たちはどう生きるのか?ということを念頭に置きながら、フライターグという考え方を広める活動をしていたように思います。
松島 - フライターグは、トラックの荷台のカバーを再利用したバッグを作っていますね。先生をやりながら、その活動をされていたんですか?
菅家 - そうですね、日本で自分たちが伝え始めたのが1996年くらいです。フライターグ自体は、1993年創業だから、リサイクルブランドの中でも草分けの方でした。自分の父親が産業廃棄物やリサイクル関連のコンサルタントをやっていたことも影響して、興味が沸いたこともあったのだと思うのですが、何よりも、フライターグの製品が素敵だったんですよね。ひとつひとつ、全部違うのに、それぞれデザイン性があって、プロダクトとして秀逸なものでした。unique, individualというコンセプトが、モヤモヤしていた当時の26歳の若者の自分にハマったんだと思います。
松島 - 世の中に一つとして同じものがないということですよね。
菅家 - その言葉は、今となっては、言い尽くされたというか、よく聞く言葉になりましたが、90年代初頭~中盤は、みんな同じ方向へ、という時代だった。それぞれが違って当たり前だよねっていう考え、文化がなかったんです。
僕たちが学校に通っていた80年代って、みんなでお手手繋いで、同じ方向を向いて勉強してた感じ。それができなければドロップアウト。良い学校に行くために、いっぱい勉強しないと。良い学校に行けば、良い会社に入れて、良い会社に入れば、良い暮らしができるっていう社会の基本観念が暮らしの中に当たり前のように在ったんだと思います。
松島 - ある程度道筋があったんですね。
菅家 - こう生きてください的なレールが敷かれていたんです。
そのために親は子供を塾に生かせたり、勉強させたり、留学させたり、、、だから、子どもが自分で物事を考えて、こうしたい、ああしたいと言うのは100年早い!という時代でした。自分が何かを考えて動くということよりも、シナリオどおり、やらなきゃいけないことや覚えなければならない歴史だとかルールだとかを覚えるのに必死でした。
だから、みんなと同じように進学し、みんなと同じように悩み、勉強も遊びもしていたけど、なんでこういうことしなきゃいけないんだろう、なんでこれやらなきゃいけないんだろう、なんで、なんで、、、というのは若いときから常に思っていました。
外見とか、年齢とか、学歴とか、会社だとかの外郭が先行する80年代、そして90年代でした。その人自身や人の考えていることなんて、問われる時代ではなかったような気がします。
松島 - みんなが同じ方向を向いているような時代に、フライターグの製品は、一つ一つ全部違って、マテリアル的には中古で、値段も高いですし、最初から受け入れられるわけではなかったですよね。
菅家 - 汚くて、臭くて、重くて、高いって・・・モノ売ろうとしてるヒトからしたら引くよね(笑)
松島 - 肩を並べて歩く日本人の根本的な考えに対して、フライターグはどう受け入れられていったのでしょうか。当時にはなかった感覚だったんですよね。
菅家 - ちょうどそういうリサイクルとかアップサイクルとかの言葉を頻繁に耳にするようになった2003年くらいは、時代が変わり出した頃だったように記憶しています。「他と違う視点」、「これまでとは違う用途」とか、新しい価値基準が社会に受け入れられた頃で、日本人は時代の動きに敏感だから、そこからは、受け入れられていったと思います。90年代はさすがに難しかったですが。
最初、自分の中では、すぐには売れないだろうと思っていたのですが、individual インディヴィジュアル (ひとつひとつが違っていて、それぞれが特有)という部分やフライターグ兄弟の視点、アイデア、そして彼らのクリエイティブな考え方自体は、日本でも受け入れられるのではと思っていました。
松島 - ある意味、確信があったということですよね。
菅家 - みんなには売れないかもしれないけど、この考え方とこのデザイナー兄弟、そしてこのブランドは、みんなが知ることになるんじゃないかなと思っていました。
コンセプトが伝われば、売上もついてくると確信して、伝える活動を続けました。
松島 - 今じゃもうすごいプレミアつくようになったりしてますよね。要は受け入れられたということですよね。
菅家 - ありがたいことですよね。時代にマッチしたし、時代をリードしていくものでしたし。フライターグ兄弟と同じ時代を共に生きているというのが、大きかったですね。できあがっているブランドを引っ張ってきて、という感覚じゃなく、同じ世代でこんな考えをやっているんだ、っていう。
松島 - 考え方に共感していた?
菅家 - 考え方もだし、グラフィックのセンスといい、パッケージデザインのクオリティといい、、、人の手に渡るまでの全ての工程がデザインされている。ただ良いものだから日本に紹介しようという感覚じゃなくて、同世代に生きてるスイス人がこんなインディヴィジュアルで魅力的なアイデアで時代を切り拓いている。じゃあ、日本で生きてる自分たちには、それぞれ何ができる?って常に自問してましたが(笑)。
教師時代の菅家さん
菅家 - 教育活動においても、18年間、中高生に教える機会をいただきました。みんなそれぞれに素敵なところがいっぱいあるのに、通知表やテストの点数でしか、評価されないという事実があります。測れるものでしか、そのヒトを測れない。でも、人って、性格やオーラとか、生まれついて持っているものの割合も同じように大きいのだと思います。ひとり、ひとりが違ってるのが当たり前だと思っているし、「違ってていいんだよ」って言ってあげたかったんです。「それでいいんだよ」って、言ってくれる大人は少ないから、自分はできるだけ言ってあげようと思っていました。僕自身が小さい頃から、そう思っていましたからね。
松島 - 廊下に順位とか貼られたりしてましたもんね。
菅家 - 自分がどのあたりの順位なのかわかっていた方が頑張れる子もいるけど、それ以外のことでもちゃんと見てあげる大人がいたらいいですよね。学校の先生にしても、親にしても、地域の人にしても、そういう目があった方がいいなとずっと思っていました。
素材そのものの魅力を大切に
松島 - 菅家さんもコーヒーがお好きと伺っていますが、そのきっかけや理由は何でしょうか。何か他と共通した興味があるのでしょうか。
菅家 - 実はですね、コーヒーにハマったきっかけは、(PADDLERS COFFEE共同代表の)加藤さんなんですよ。
松島 - 何が面白いと思ったんですか?
菅家 - 恥ずかしながら、大学時代にドリップコーヒーを提供するカフェの店長をやったりしたこともありました。正直、コーヒーが美味しいと思ったことはありませんでした(笑)仕入れ先のマニュアルに従って淹れていたのですが、美味しく淹れられないし、お客様の好みは千差万別ですし。これだ!って味に辿りつきませんでした。それに、当時のコーヒー屋さんは、昔のせんべいやさんのように大きいガラスのケースに豆を入れていて、下の方の豆なんて、どれくらいフレッシュなのかが分からないくらい油まみれでどろどろした状態でしたし。
コーヒーに対しては、そんな印象を持っていたのですが、加藤さんと出会ってから見方が変わりました。毎日、自分で淹れたコーヒーを持ち歩いたり、山に登って、山頂でコーヒーを淹れて楽しんだりしていると聞いたんです。20代中盤で、同じように与えられた一日をそんな風に過ごしているんだ。コーヒーに対してそういう思いで接する若者がいるんだなあと感じ始めて、あらためてコーヒーに興味が湧き始めました。
神宮前にあった頃のPADDLERS COFFEEにて 加藤健宏さん
菅家 - 2012年に娘がうまれて、引っ越した先でONIBUS COFFEEの一号店があったので行ってみたんです。そこでナチュラルのコーヒーを淹れてもらったんですけど、、、「あらら!?」ってなったんですよ。コーヒーって果実だったよなって思い出すような。ギトギトのコーヒー豆しか知らない昭和のジェネレーションだから、まさに衝撃的な瞬間でしたね。新鮮な生豆、挽き方、淹れ方でこんなに味が変わってくるんだな思いました。赤い果実を彷彿とさせる、まったく別の飲み物という気がしました。
松島 - 今まで飲んでいたコーヒーとは完全に別物だったのですね。
菅家 - 元々自分の中に、人も場所も違ったら、みんなそれぞれ変わって当たり前だという考えがあったから、シングルオリジンってまさにそうですよね。フレンチローストとかブレンドとかを飲んでいても、それがどこの地域のどんな豆をブレンドして、その味になっているのかも知らないことがありましたし、気にも留めない時代がありました。
引っ越した先で出会えたONIBUS COFFEE 坂尾篤史さん
菅家 - どういう人たちが、どこの農園に行って、どんな出会いがあって、どんなプロセスの豆で、どんなふうにコーヒーを淹れているのかを知ることでコーヒーショップの顔が見えるようにもなり、どんどんコーヒーが好きになっていきました。今まで日本で飲めなかったような地域のフレッシュな豆が、ついに飲めるようになったんだ、そんな時代になったんだなということにも感動しましたね。
con.temporary furniture ローンチ・製作いただいてる埼玉のヒノキ工芸にて
松島 - 菅家さんは今、ブルペンでも扱わせてもらっている、ctf(con.temporary furniture / コンドットテンポラリーファニチャー)という家具ブランドにも関わっていらっしゃいますが、そもそもなぜ日本に持ってこられたんでしょうか?
菅家 - 持ってきたというより、これも出会いと繋がりです。フライターグのつながりで知り合った、スイス人デザイナー、コリンとのプロジェクトから始まりました。
元々は、某アパレル会社のコンセプトブック制作がきっかけでした。当時青山にあったユトレヒトのギャラリースペースでのローンチのタイミングでワークインプログレスをコンセプトに自分たちも働きながら、展示しようということになり、同郷の巨匠ピーター・ズントー(Peter Zumthor)のオフィスで図面を引くことを学んだコリンが、ノックダウンのワークデスクとシェルフをすぐに図面化してみせたんです。数年後の2010年にその展示会用に作った家具を、彼がブラッシュアップして家具コレクションにしたということで見せてくれたのですが、それが素晴らしかったのです。
2014のリローンチ時の展示会
菅家 - 何よりも、コンセプトが斬新でした。
デザインは一つ、だけど、販売する国によって、木材と作る人たちが変わる、というものです。その国の風土にあった木材を使って、その国の優秀な職人の方々にお願いする、という、サステナブルな仕組みであり、地域ごとに少しずつ変わってくる面白さを持つのが、con.temporary furnitureの特徴ですね。
日本の36(サブロク)板、いわゆる畳一畳サイズの積層合板を使ってデザインされているモジュール家具の面白さもあります。簡単に解体できて、普通の乗用車で運べるんですよ。そして釘も使わず、一人で組み立てることができる家具です。
日本では、北海道産のカラ松とシナの二種類で作っています。天板にはリノリウムという素材を使っていますが、リノリウムってご存知でした?
松島 - 初めて知りましたね。
菅家 - クリミア戦争の最中、ナイチンゲールが病院の床を亜麻仁油で掃除したことから始まったようです。家具用のリノリウムって、そんな抗菌作用のある亜麻仁油と、石灰岩、マツヤニ等を混ぜてできているんです。天然のものだから土に還っていくし、ゴミにならない素材です。触ってても気持ちいいし、ペンで書く時も心地いいですし。
菅家 - 日本の家具製品って、これまでは、節も割れも許されなかったように思います。でも自分は、節も割れもいいと思ってます、木だから。木の道管を潰してしまうウレタンだって、いまだに求められています。天板だって、メラミンが主流ですよね。水に強くて、掃除しやすく、それでいて安いから。安くて掃除しやすいというのが日本人の家具を選ぶ基準になってしまった気がします。
自分はひとつひとつ違うっていうのが好きだし、そのモノが持っている本来の素性が好きだから、例えばリノリウムの持っている性質、とか、カラマツの持っている性質、とかを感じられたらと思っています。
割れがあったりして、手や服が引っかかるようなら、自分でヤスればいいですし。60 / 120 / 240 / 320 と粗めのヤスリから試していくと楽しいですよ。
菅家 - あと「板」って元々、木へんに反ると書いて、「板」というくらいだから、まあ、反るんですよね、天候や湿度の変化で。「反った」ら、クレームになるんです。裏張りをしていないctfの天板ですが、職人の方達の腕のおかげで大きな問題は今のところありません。木だからささくれたり、節があったりするのはごく自然なことだと思っています。昔は木しかなかったはずなんですが。周囲にどんな種類の木が生えているのか、もっと知りたいですよね。
無塗装仕様の天板の汚れは、手垢含め、いい意味で味になっていきます。気になるのであれば、一枚剥けばいいです。また新しい木の香りがしてきます。固く絞った水拭きで、木目に沿って拭き掃除をするだけでも、木の香りを楽しむことができます。ctfを使っていく中でいろいろな気づきを立ち止まって感じてもらいたいということも、このブランド名に使われている"dot ドット"にも繋がっているんです。
それぞれ人もモノも、自分たちで選んで大切にして、毎日を丁寧に暮らすことをしていれば、何も気にする必要はないはずだと思います。
松島 - これまでやってきたことや、今やってることは、やはり繋がっているでしょうか。
菅家 - 教育でもフライターグでも、コーヒーでもctfでも、同じことを伝えて、考えていたように思います。一つ一つが、違って当たり前、ひとりひとり、それぞれが違っていることが素敵だ、ということを伝えて廻ることが、僕の役割だと思っています。
人ひとりひとりや、物事ひとつひとつの本質を見つめ、みんな違って当たり前であり、それが魅力であるという考えを一貫して持つ、菅家さんのこれまでの活動をお伺いすることができました。
後編では、菅家さんがどのような経緯で、tefuプロジェクトに関わるようになったのか、どんなところに共感していただけているのかをお伺いしながら、個々の魅力や価値、出会い、縁を繋いでいく、カンケイシャのお仕事についてお話しいただきます。
菅家 明彦 / Akihiko Kanke
1970年生まれ。2014年までおおよそ18年間に渡り、関わったスイスのバッグブランド FREITAG(フライターク)のストーリーテリングを含む国内ブランディングとセールスをきっかけに、土地や人、それそれが「違って当然」なことに魅了される。2010年から継続するスイス人デザイナー コリン・シェリーの「それぞれの販売国の木材と工房で製作」する con.temporary furniture(コンドットテンポラリーファニチャー)のプロデュースをはじめ、山形山辺の米富繊維、愛媛今治のみやざきタオル、埼玉鳩山のサザン・フィールド・インダストリーズなど、関わるブランドのディレクション、他 マーケットサポートは多岐にわたる。
Interview : Daisuke Matsushima
Edit : Chisato Sasada
Photo : Junpei Ishikawa
tefuは、ヴィンテージ家具のシェアリング事業や空間運営事業を通じて、「さまざまな価値を分かち合いながら、自分らしく住まえること」のサポートを行う新プロジェクトです。
本連載は、tefuのアドバイザーであり、家具と雑貨のお店BULLPENの共同代表である、松島大介さんがインタビュアーとなり、「自分らしい住まい方」「自分らしい生き方」を実践する人々を訪ねていく、BULLPEN×tefuのコラボレーション企画です。
「良いものを長く使い続けること、その価値を分かち合うこと」について考え、これからの豊かな暮らしのヒントをお届けします。